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▲地蔵石仏の今
 
  【戦乱に焼かれた石地蔵】
   石地蔵は街道の辻やむらの出入口、橋のたもとなどにたくさん祀られている。平安時代の中頃から信仰されるようになったという。
 泉橋寺(せんきょうじ)は山城町上狛の木津川北岸にあり、南岸の木津町と向きあっている。この寺は、その名のとおり、奈良時代に木津川に架けられた泉大橋を守るために、高僧、行基(ぎょうき)によって建立された。境内に高さ5bを越える石の「地蔵さん」が、基壇の上に並んだ礎石のなかに、露座で座っておられる。もともとお堂の中に座していたことがわかる。
 行基が建立したお寺ということで、江戸時代になってから、この石地蔵も、行基によって作られたという伝えが広まったが、実はそうではなかった。
 応仁元(1467)年に京都で始まった応仁の乱は、やがて周辺に広がり、南山城も戦場となり、地元の武士たちも、それぞれ東西両軍に組していくことになった。文明2(1470)年、遠くからやってきた西軍方の大内政弘の軍勢が南山城を押え、東軍方は木津だけが残っている状態となった。翌文明3年4月、大内軍は吐師・相楽(木津町)上狛野(山城町)を焼いて木津郷に押し寄せた。この合戦で、泉橋寺と地蔵堂が焼失してしまったのである。興福寺大乘院の門主尋尊(じんそん)は合戦のようすとともに、石地蔵のいわれを記録していた。
 『この地蔵は日本一の石地蔵という、丈六(一丈六尺)なり、永仁三(一二九五)年正月廿四日切り始め奉り、徳治三(一三〇八)年九月八日御堂上棟、九日供養、十日密供養、願主般若寺真円上人、』
  【地蔵さんと結ぶ縁】
   この巨大な石地蔵と地蔵堂は鎌倉時代後期、広い範囲の人びとに、仏と縁を結んで資金を出す、つまり「勧進」(かんじん)によってつくられた。人 びとは来世に願いをこめていたのかも知れない。その願主の中心が真円上人だったのである。般若寺は西大寺の末寺であり、真円は、真言律宗の宗祖で、西大寺の中興開山叡尊(えいそん)の弟子であった。しかし、御堂が上棟された徳治3年には、まだ石地蔵は完成していなかった。元応2(1320)年7月、鎌倉の西大寺末極楽寺長老、順忍から横浜金沢の同宗称名寺にあてた手紙が残されている。石地蔵の台座と光背の勧進を広く勧めてほしいことを述べ、「いかなる老眼も平喩あるべく候」とあって、眼病平癒の信仰があったこともわかる。全国的に勧進がすすめられ、こうして長い時間をかけて、石地蔵は造立されていった。
 鎌倉幕府を討つ武力蜂起を決して、元弘元(1331)年8月、夜に京を立って奈良へ向った後醍醐天皇は、この石地蔵を過ぎる時、夜明けとなった。朝食をこの寺でとったことを太平記が書いている。
 
  【露座の石地蔵】
 
▲天明7(1787)年の拾遺都名所図会
  に載せられた泉橋寺
 さて、石地蔵のいわれを伝えてくれた大乘院尋尊は、延徳3(1491)年に「木津地蔵縁起絵巻3巻」を入手し、京都の御所へ進上した、と日記に記している。この絵巻にはくわしい経過やそのようすが画かれていたにちがいないが、今はみることができない。
 焼けただれ、その雄大な風格を失ったまま、石地蔵はその後200数十年風雨にさらされてきたが、元禄3(1690)年になって、奈良の上田保重が頭部と両手の再興を発願し、椿井村(山城町)にあった青龍寺がすたれた跡の石によって、大坂中堀の石仏師が彫刻をしたと、寺の略縁起がまとめている。
 泉橋寺石地蔵は、その台座、蓮弁や衣の1部に、鎌倉時代の趣きを偲ぶことができる。
 今も、地蔵さんは露座のまま座っておられる。7月23日の地蔵祭りは、近在近郷の老若男女で賑わい、参道に露店が並ぶ。



  ※「山城町史(本文編、史料編)、京都府相楽郡誌、山城町広報360号を参考にしました。 

 
■著者プロフィール■

昭和7年生まれ
 38年間、山城地域の小・中学校に勤め、現在、城南郷土史研究会 代表。
山背古道探検隊長。
 「木津町史」、「山城町史」などの町村史と「京都府の地名」(平凡社)、「山城国一揆」(東大出版会)、「けいはんな風土記」(同朋社)などの編集や執筆に加わってきた。

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