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▲泉大橋から木津川下流を望む
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
この名高い書き出しで始まる『方丈記(ほうじょうき)』の作者鴨長明(かものちょうめい)は、仏教的無常観を基調として世の転変や人生の無常を水の流れに例えている。また、川を題材として歌い継がれてきた歌謡の中には、人生のはかなさや悲哀を歌ったものが多い。
しかし、その一方で水は私たちの生活に欠くことのできないものであり、南山城の歴史や文化を語るとき、この地を流れる河川を抜きにしては語れないものがある。
南山城には、宇治・木津という二条の大河が流れている。宇治川は琵琶湖に水源を発し上流を瀬田川と呼び、京都府と滋賀県の山峡を西南流し、宇治市を経て八幡市で桂川と合流する。木津川は鈴鹿(すずか)山脈・布引(ぬのびき)山地にその源を発し、柘植(つげ)川・長田(ながた)川など多くの支流を合わせながら、相楽郡南山城村の夢絃(むげん)峡で名張(なばり)川と合流し、笠置峡谷を経て木津川市の西部で流路を北に向け、綴喜・久世郡を北流して八幡市橋本付近で桂川・宇治川と合流する全長89キロメートルにおよぶ長大な大河である。
川は人間の生活にさまざまな恩恵を与え、人間が川を利用していく間に、川は人間たちによって呼び名がつけられ、さらには文献などに記録されるようになる。
さて、南山城の中央部を縦断して流れる大河を、私たちは親しみを込めて「木津川」と呼称しているが、その名称の移り変わりについて考えてみたい。
泉川と呼ばれてきた木津川は、『記紀』によれば古くは山代(やましろ)川・山背(やましろ)川と称されていたらしく、その流域は巨椋(おぐら)池に注ぐまでの間の呼び名であったらしい。時代がさがるにつれて、この山代川の名は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』にいう相楽郡水泉郷(いずみごう(現木津川市付近))の地名にちなんで泉川と呼ばれるようになった。『万葉集』に見える地名などから上流の加茂町付近では、鴨川あるいは宮川と呼ばれ、下流の綴喜郡あたりまでを泉川と呼んだようである。
また、泉川は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて「こつかわ」と改称された時期もあった。ともあれ、泉川の名は、『蜻蛉(かげろう)日記』などに見られることから、平安時代中ごろまでその名が使用されたと思われる。
▲ 武埴安彦が討たれた地を示す石柱
(精華町祝園)
このように数多くの名称が、今のように「木津川」と改称された年代については、定かではないが『平家物語』や伏見院の女官中務内侍(なかつかさのないし)の日記である『中務内侍日記』などにその名が見えることから、おそくとも鎌倉時代中期には木津川の名で呼ばれていた。
ところで、木津川の名を考える場合、次のような大変興味深い伝承がある。
木津川が泉川と呼ばれる以前、この川はワカラ河と呼ばれていた。『古事記』崇神(すじん)天皇の段に、幣羅坂(へらさか(現木津川市坂))で崇神天皇の名が呼ばれているのがきっかけで、異母兄の建波邇安王(たけはにやすのみこ・武埴安彦(たけはにやすひこ))の謀反と分かり、天皇の軍(日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと))と建波邇安王とが「和訶羅河(わからがわ)」を挟んで、挑(いど)み合ったことから伊杼美(いどみ)とも呼ばれるようになったという。また、『日本書紀』にも同様の記載があり、川名を「輪韓河(わからがわ)」と記し、この名が転訛して泉川となったと説いている。
和訶羅河(輪韓河)の語源については定かでないが、国語学者の吉田金彦氏は著書『京都滋賀古代地名を歩く』の中で、木津川の流路が木津町の吐師(はぜ)付近で大きくL字型に湾曲し、そのあと下流まで、両岸に広々とした河原が続いていることから、ワカラ河のワカラとは、ワカ(曲)カハハラ(河原)の約まった形で、大きく湾曲した河原の川というのが、ワカラ河の意味のようであるとしている。
このほか、精華町祝園(ほうぞの)の出森には、『記紀』にいう建波邇安王が斬られた場所と伝えるところがある。また、祝園神社と和伎(わき)神社(涌出宮(わきでのみや)・山城町)には、敗死した建波邇安王の霊を鎮めるために始まったとされる同名の「居籠(いごもり)祭」が木津川を挟んで二社に伝承されているのも興味深い。
このように、木津川の流域には、実に多くの遺跡や伝承が残されており、古代のロマンを求めて散策するには事欠かない地域である。
古来より木津川は、奈良京都・大坂を結び人や物が行き交い、南山城の経済・文化・産業の発展に大きく貢献してきた。まさに「水のみち」であり、「母なる川」であるといっても過言ではない。
■著者プロフィール■
西脇一修(にしわき かずのぶ)
(昭和24年9月15日生)
現在 久御山町長寿健康課長、京都府文化財保護指導委員
主な著書
「京都府の地名、日本歴史地名大系26」(平凡社)
「久御山町史 全3巻」(久御山町)
「目で見る南山城の100年」(郷土出版社)
「京都・山城寺院神社大辞典(平凡社)」ほか
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