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▲猿楽の勧進興業想像画
(「絵がたり山城国一揆」より)
【奈良へ越える国境い】
木津町梅谷に「平野(ひらの)」という小字がある。奈良市の般若寺のあたりから東に伸びる標高200米に満たない、名のとおりの丘陵である。今は西から住宅やいろんな施設が建ち並び、やがて、奈良市水道局の浄水場に出合う。
南に春日山と若草山が手にとれるように近く、遠く南西に奈良市街が拡がり、その果てに生駒山が横たわっている。北へふりかえれば、小高い山々の向こうに山城国を望むことができる。雑木林と草原の平野をそこにおけば、この風景は500年前とそう変らないだろう。当時、山城国から奈良の街へ越えるいくつかの道筋の内の一つが、加茂から梅谷をつめて平野を越えるこの道である。史料には西北側にある木津町市坂の「高座(こうざ)」とともに、平野が記されている。
【土一揆と戦乱と平野】
平野がまず史料に登場するのは、畿内各地の「土民」が徳政令の発布を求めて、はじめて蜂起した正長元(1428)年のことである。11月になって山城の土一揆は、この平野を越えて般若寺など、奈良へ攻め込むことが2回あった。19日夜には、数千人が火を焚いて、平野で集会を開くというようなこともあった。いずれも興福寺衆徒の筒井順永によって鎮圧されたが、この地は、中世、加茂、笠置、和束から奈良へ越える街道の要衝であり、茶屋が開かれ、辻堂があった国境いの地であった。だから、土一揆の集結の地でもあったのである。
戦国時代に入っても、この平野は、武士の合戦場となったり、軍勢が出陣する地となったりした。
【手猿楽の興行】
けれども、この平野には土一揆と戦乱にその名をとどめているだけではなく、平和なできごとを伝える史料が残されていた。
南山城で国一揆が成立した年の翌文明18(1486)年春、5年前に山内の不和から、本堂を残してすべて焼き払われてしまった中川寺を再建するため、勧進興行(かんじんこうぎょう)として、この平野で手猿楽(てさるがく)が催されることになった。
この興行を取り持った高矢辻子は在々所々に興行の札を立てたが、そこには「山城の平野」と書いたので、興福寺の衆中から「かの平野事は大和の内なり、山城の由と申す条其の意を得ず」ともの言いがついた。仕方なく、辻子は札書の「山城」を除いて「平野において」と改める一幕もあった。まさに国境いの地名なのである。
京からやってきた猿楽衆は大夫以下20人ばかりで、「若衆」とか「童部(わらべ)」といわれる年少の若者たちであった。興福寺や東大寺の衆中は仮屋を設けて見物し、一般の人たちも大勢やってきた。観覧料は一人あて八銭を出せば、誰でも見ることができた。興行は4月8日から4日間行われ、大群集でうずまったと、記録されている。
【平和な日々も多かった】
▲1990年ごろの平野のようす
(「木津町史本文編」より)
春の陽に輝く新緑の平野で、南山城の人びとも、土一揆の集会とか、国一揆の「土民等群集す」とはちがった楽しみのひとときを過ごしただろう。猿楽衆も、もともと素人であった京の町衆が猿楽をたしなみ、職業的な一座を組んで芸能興行をはじめるようになった人たちであった。
寺社などに保護された伝統的な猿楽を、限られた人たちが観賞するのではない、こうした興行は、このころから盛んに行われるようになっていった。5、60人の手猿楽衆が京から木津下渡しを越え奈良へ向かったとか、下狛で女猿楽が興行されたというような記録がある。
平野は、中世でも平和な日々が多かったのだが、その後の近世でも、ずっと、国境いの峠としてにぎわったにちがいない。
※今回は、「木津町史(本文篇、史料篇T、U、V)」、「絵がたり山城国一揆」(文理閣)を参考にしました。
※「猿楽の勧進興業想像画」
(むい・きょふう)=本名:井上孝博 画
■著者プロフィール■
昭和7年生まれ
38年間、山城地域の小・中学校に勤め、現在、城南郷土史研究会 代表。
山背古道探検隊長。
「木津町史」、「山城町史」などの町村史と「京都府の地名」(平凡社)、「山城国一揆」(東大出版会)、「けいはんな風土記」(同朋社)などの編集や執筆に加わってきた。
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