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南山城村は京都府唯一の村、豊かな山水に恵まれ、のびやかに茶畑が広がるその風景は、現在の桃源郷(とうげんきょう)と呼ぶにふさわしい地です。
一条兼良『藤河の記』 南山城村を記した文学作品としては、まず一条兼良(かねよし)の『藤河の記』をあげましょう。一条兼良は、室町時代中期の公卿で、太政大臣・関白などを歴任し、当代一流の文人でもあった人物です。文明五年の美濃紀行が『藤河の記』ですが、帰途南山城村を通った時の記述があります。
5月28日、田山で名張川を渡ろうとしたが水かさが増して叶(かな)わず、島ヶ原で木津川を渡りました。その時の歌、
・島の原川瀬の浪の徒渡(かちわた)り
田山越えをば
よそになしつつ
以下原文で記すと、「大河原といふ所は、伊賀と山城との境なり。河原の木石、さながら前栽(せんざい)などを見る如(ごと)くなれば、
・苔むせる岩根に松は大河原
変らざりけり庭の州崎(すざき)に」
「前栽」は、庭の植え込みのこと。歌の意味は、「苔むした岩に松の生えている大河原の河原の風景は、まるで美しい庭の州崎のような趣(おもむき)である」というものです。
木津川上流の大河原の風景は、今日でも優しい繊細な風情がありますが、兼良の歌は、よくその雰囲気を伝えています。当時の大河原辺りはどんな景色であったのでしょう、是非(ぜひ)見てみたいという思いに駆(か)られる歌です。
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▲田山の茶畑の風景
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近現代の作品より
近現代では、南山城村を愛した作家に近松秋江(ちかまつしゅうこう)がいます。彼は作品の中で「その大河原というのは関西線の木津川の渓流(けいりゅう)に臨(のぞ)んだ、山間の一駅で、その辺の山水は私の夙(つと)に最も好んでいる所で・・・」と主人公に語らせています。彼の女性関係を描いた私小説『黒髪』・『狂乱』・『旧恋』などに南山城村は登場します。雲隠れした女性の親戚が童仙房にあると聞いて尋ねてゆく場面、『狂乱』(大正11)から少し引用します。
「一体木津川の渓谷(けいこく)に沿うた、そこら辺の汽車からの眺望(ちょうぼう)は夙に私の好きな所なので、・・・冬枯れた窓外の野も山も見るから暖かそうな静かな冬の陽に浴して、渓流に臨んだ雑木林の山には茜色(あかねいろ)の日影が澱(よど)んで、美しく澄(す)んだ空の表にその山の姿が、はっきり浮いている。間もなく志す大河原駅に来て私は下車した。・・・」
「前田しう」という実在の女性との関係を作品化した小説、彼が女性を捜して大河原まで来たのも実際の話であったと思われます。
放浪の俳人種田山頭火(たねださんとうか)も南山城村を歩いています。昭和11年の春、月ヶ瀬梅林に遊んだ山頭火は、大河原駅を降りて月ヶ瀬に向かいました。山頭火の旅日記を引用しましょう。
「うららかな雀のおしゃべり。
早朝出発、乗車、9時大河原下車、途中、笠置の山、水、家、すべてが好ましかった。
川を渡船で渡されて、旅は道連れ、快活な若者と女給らしい娘さんらといっしょに山を越え山を越える。
大和山城の自然は美しい。
山路は快(こころよ)い、飛行機がまうえを掠(かす)める。
母と子とが重荷を負うて行く。
二里ばかりで名張川の岐流(きりゅう)に添うて歩く、梅がちらほら咲いている。・・・」
山頭火は渡舟で南大河原に行き、山中の道を通って高尾辺りで名張川岸に出たのでしょうか。南山城村の山河を愛(め)でつつ歩く山頭火の、浮き立つような名文に触れる時、親しい南山城村の風景が、より美しく愛(いと)しいものに感じられます。
その他にも、@田山花袋『名張少女』・A司馬遼太郎『梟の城』・B寿岳章子『京の思い道』・C木谷恭介『京都木津川殺人事件』等に南山城村の記述があります。
@はわずかな記述ですが、夜汽車に乗って大河原から島ヶ原に向かう途中、主人公が闇夜に川の流れを聞きつつ物思う場面が印象的です。Aは単なる旅人でない、地元の人々との交流を重ねた、この作者ならではの味があります。沢田重隆氏の挿絵(さしえ)も素晴らしく、楽しい書物です。
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1958年、南山城村に生まれる。82年より京都府立高校に勤務。現在府立南陽高校国語科教諭。『注釈青谷絶賞』『「月瀬記勝」梅蹊遊記訳注』執筆。 |
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