むかし、後醍醐天皇が、山深い南笠置の城にひっそりと身をかくしておられた。
ところが、元弘元年(1331年)の9月の末、敵の夜襲をうけ、笠置の城は落ちてしもうた。
夜半から降りだした雨は、女房たちの涙のように止(や)むことなく、容赦なく降り続いたそうや。
おりから風も強くなり、敵が攻撃の手をゆるめた。そのときを逃さず嵐にまぎれて、天皇の一行は、ひそかに逃亡したのや。
生きのびた護衛の者たちと、女房たちは、天皇をただご無事に安全な地にお連れすべく、強い風雨の中、もくもくと山中を歩いた。
慣れぬ行軍ゆえ、女房たちはどんどん遅れがちになって、とうとう若い女房が、足を痛めてしもうた。しばらく休んでから、後を追いかけたが、追えども追えども、追いつけない。
「もう追いつくのは無理や。追っ手に捕らえられるものいやじゃ。どうしたら良いのやら…」
やがて嵐の夜が、明けてきた。若い女房は、そばに池があるのに気づくと、喉(のど)のかわきをいやそうとして、池に近づいた。そして、驚きの声をあげた。着物は泥土で汚れ、美しい黒髪も風雨で乱れに乱れていた。
あまりに変わり果てた自分の姿に悲しみの涙も枯れ果ててしもた。放心したまま、水の面を見ているうちに、池の主に魅入られたかのように、するするっと池に身を沈めていったということや。
この若い女房のことを、だれ一人として知る由もなかった。池の周りの木々も、何事もなかったように歳月を積み重ねていったのや。
ある時、村の男が、山仕事で汚れた手を池で洗っていた。すると長い黒髪がゆらゆらと水面に広がり、若い女房の姿が浮かび上がってきたそうや。
村の男は、腰もぬかさんばかりにびっくりして村に逃げ帰り、
「お姫さんが浮かんできた!」と、ふれまわった。
その男には、女房がお姫さんに見えたんやろ。
それから村の者が、この池の面を見るとお姫さんの姿が、ぼぉっと浮かんでくるそうや。
そんなことがあってから村人は、この池に近づかなくなり、だれ言うこともなく、「お姫ヶ池」と、呼ぶようになったそうや。
背 景
鎌倉幕府が滅んだ後、後醍醐天皇は京都で建武の新政を始めたが、足利尊氏と対立して吉野へ逃れ、南朝を樹立しました。